皿屋敷跡

【さらやしきあと】

全国各地に「皿屋敷」と呼ばれる伝説が残されている。旧・碓井町にも、この皿屋敷跡と呼ばれる場所があり、井戸に身を投げて死んだ「お菊」さんを祀る祠がある。

石竹という所に清左衛門という豪農が住んでいた。ある時、賓客があって大いに饗応した。そこで出されたのが家宝とも言うべき皿であった。宴も終わり、それらを片付けようとすると一枚が足りない。清左衛門は下女のお菊に問い質したところ、妾に渡したと答えた。ところが妾は知らないと言う。言い合いになったところ、清左衛門は皿をなくしたのはお菊と断じ、散々に怒ったのである。その夜、罪を被せられた格好のお菊は、屋敷内の井戸に身を投げて死んでしまった。それから毎夜、井戸からお菊の亡霊が現れて、「一つ、二つ」と数えだし「九つ」と言ったところでワッと泣き叫ぶ声が聞こえたという。

皿屋敷跡にはお菊大明神という小社が建てられている。昭和の初めに初めて建てられ、現在のものは平成8年(1996年)に建て替えられた。壁や天井は地元の絵師が描いた花鳥図で覆われており、実に華やかな印象がある。またこの小社の前には、お菊が身を投げたと言われる井戸が残されている。

碓井の皿屋敷伝説も典型的なストーリーが展開されるが、その後に非常に不思議な後日談が加わっているのが、他に類例を見ない点である。

死んだお菊には、三平という名の情を通じた男がいた。三平は清左衛門の屋敷内の怪異を聞き、回向のために四国霊場八十八箇所を廻ることにした。そこにお菊の母親が是非にということで、三平は一緒に旅立ったのである。八十八箇所巡りを終えて播磨国の某所に来た時、お菊の母親が病で倒れ、そのまま亡くなってしまった。三平はお菊の母親の菩提を弔いながら、結局その地に留まることとなったのである。

しばらくして、三平の所にある女が住み着いて、所帯を持つことになった。二人は仲むつまじく暮らしていたが、この地に名僧が来て加持をおこなっているのを聞き、二人してお菊の母の菩提を弔うために参詣した。ところが法会が終わろうとする時、いきなり激しい雷雨に見舞われた。雨はすぐ止んだので、三平は帰ろうと妻の方を振り向くと、そこには妻の姿はなく、着物だけが抜け殻のようにあるだけ。驚いた三平が着物を掴むと、中から一枚の皿が出てきた。それは、かつて清左衛門の屋敷で紛失し、お菊が死ぬきっかけとなった皿であった。全てを悟った三平は、名僧に全てを語り、お菊の菩提を弔うために奉納したのである。

これが明治9年(1876年)に福岡県が編纂した『福岡県地理全誌』にまとめられた“皿屋敷址”の概要である。現在、皿屋敷跡から少し離れた永泉寺の境内に、お菊の墓と称するものが、ほとんど台座だけの状態で残されている。また、お菊の打掛、脇差、当時清左衛門の客間にあった掛け軸が、碓井郷土館に収められているとのこと。ただしお菊の皿については、大正頃まではあったらしいが、現在は行方不明という。

<用語解説>
◆皿屋敷伝説
伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』によると、この伝承地は岩手から鹿児島まで全国48ヶ所あるとされる。
なお上記の紹介文は、伊藤氏のこの本に負うところが大きいことを記しておきたい。労作であり、名著である。

アクセス:福岡県嘉麻市上臼井