五万騎塚

【ごまんきづか】

“日本三大合戦”と呼ばれる戦いがある。関ヶ原の戦い、川中島の戦い、そして筑後川の戦いである。規模の大きさ、戦いの烈しさ故に挙げられるものである。五万騎塚は、この筑後川の戦いにまつわる碑である。

南北朝時代の九州の勢力図は、懐良親王の登場によって大きく変化する。征西大将軍として九州に赴いた親王は、菊池氏・阿蘇氏など肥後の勢力をまとめて、南朝の一大勢力を作りだした。そして正平14年(1359年)、南朝方であった少弐氏が北朝側に寝返ると、親王は高良山の陣から北へと兵を進めたのである。一方の北朝側も少弐氏をはじめとして諸将が、南朝方の進出を阻止するために対陣した。遂に両軍は筑後川を挟んで一触即発の状態に至る。南朝方4万、北朝方6万という兵力であった。

小競り合いが続いた8月6日の夜半、南朝の菊池武光は夜襲部隊を送り込んで合戦を仕掛ける。こうして始まった戦いは、翌日の夕刻まで続けられた。その戦いは凄まじく、北朝方では副将の少弐直資(当主頼尚の嫡男)が討死、一族23名、その他名のある郎党400余り、3000名を超える者が討たれた結果、全軍が大宰府にまで退却したのである。一方の南朝方も、主将の懐良親王が3箇所も深手を負い、主力の菊池勢も1800もの死者を数え、敵の退却を追うだけの余力もなくこちらも退陣したのである。

両陣営とも戦場から退いたため、5000以上の遺体がその場に放置された。しかも季節は夏であり、腐敗した遺体の悪臭が高良山まで届いたという。やむなく高良山の僧が敵味方の区別なく遺体を集めて一箇所に埋めて供養した。これが五万騎塚の始まりであるされる。

<用語解説>
◆懐良親王
1329-1383。後醍醐天皇の皇子。7歳の時に征西大将軍に任命され、九州に赴く。菊池氏の援助を受けて肥後に征西府を置き、その後高良山に進出。筑後川の戦いの後に大宰府を占領して、九州のほぼ全域を南朝の支配下におくことに成功する。その勢いは、九州探題となった今川了俊によって駆逐されるまで約10年間続く。

◆菊池武光
1318-1373。菊池氏は後醍醐天皇の挙兵時以降一貫して南朝方に属しており、武光が家督を継いだ後も南朝方として活躍し、筑後川の戦い・大宰府奪取などで功績を挙げ、当時の南朝で最大の勢力となる。その後、九州から東征を図るが失敗。大宰府も失い、南朝衰退が始まる中で死没する。

◆少弐頼尚
1294-1371。足利尊氏が建武の新政から離反した時に北朝側として戦い領地を拡大。その後足利直冬を助けて北朝陣営から離脱、さらに南朝に与するが、再び九州における北朝の主力となる。筑後川の戦いで敗北し、嫡男の直資を失う。

アクセス:福岡県久留米市宮ノ陣