熊坂長範物見松跡

【くまさかちょうはんものみまつあと】

国道8号線を少し脇に入った水田のそばに「熊坂長範物見松跡」の石柱がある。嘉永5年(1852年)まで、この場所に樹齢1000年ほどの松の巨木があったという。

熊坂長範は有名な盗賊の首領であるが、あくまで架空の人物である。ただ、元服したばかりの源義経が金売り吉次と共に奥州へ下る途中の美濃国の赤坂宿(あるいは青墓宿)で遭遇し、それを討ち果たしたという話が謡曲『烏帽子折』や『熊坂』で登場し、江戸時代には歌舞伎などの演目となったために、伝説的な盗賊として広く知られるところとなっている。

この物見松は、街道筋に居を構えた長範が行き交う旅人を品定めするために、手下に見張りをさせていたと伝説が残る。しかし実際のところでは、この土地を治めていた者が屋敷を構えていたが、いつしか熊坂の地名(同時にその一族の姓ともなっていたと推認される)から熊坂長範と結びついて、このような伝承が残されるようになったのだろう。

上に書いたように、この物見松は江戸末期に枯死したのであるが、たまたま熊坂の地にいた龍松寺住職で仏師の達誉智山和尚の夢枕に阿弥陀仏が立ち、枯れ松の木を使って仏を彫るように告げた。そこで智山和尚は村人とはかって、立木のままの状態で阿弥陀仏を彫ったのである。高さは約2.5m、幅も約2mの座像であり、物見松がいかに巨木であったかが判る。

その後、熊坂大仏と呼ばれるようになった座像は、明治になって根から切り離されて、集落の仏殿に安置された。さらに昭和7年(1932年)に隣家からの不審火により黒く焼け焦げ、昭和31年(1956年)に補修されて現在に至っている。

<用語解説>
◆『烏帽子折』
謡曲。源義経を主人公とする。近江国の鏡の里で元服するために烏帽子を求める義経。その烏帽子屋の妻が、父・義朝の寵臣であった鎌田政清の妹であり、二人は再会を喜び合う。さらに美濃国の赤坂宿まで辿り着くと、盗賊の熊坂長範が夜討ちを仕掛ける。手下が投げ入れる松明を義経が切って投げ返すと、一旦引き返そうとする熊坂。しかし思い直して襲いかかるが、最後は義経に討ち果たされてしまう。宮増の作品とされ、能としては非常に演劇姓の強い内容となっている。

◆『熊坂』
謡曲。旅の僧が、熊坂長範の霊と出会い、霊が義経に討たれた顛末を語り、消えていくという展開。演目の後半部では、熊坂の霊は大薙刀を振るって戦いの場面を再現する。

アクセス:福井県あわら市熊坂