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野間大坊
(のまだいぼう)
愛知県知多郡美浜町野間
 正式な名前は「大御堂寺(おおみどうじ)」であるが、野間大坊の方がことのほか有名である。この地は、平治の乱で敗れて逃げ落ちた源義朝が暗殺された地であり、野間大坊に義朝の墓がある。
 平治元年(1159年)、戦に敗れた京都から逃げ延びた源義朝は、わずかな近臣と共に東国を目指していた。そして共に落ち延びていた鎌田政清の舅に当たる、長田忠致の住む野間に辿り着く。ところが忠致と息子の景致は、平家の恩賞目当てに裏切りを果たし、義朝の入浴中に暗殺する。
 こうして非業の死を遂げた義朝の墓であるが、平家の世にあって荒れるに任せていた。それを見かねたのが平康頼であり、墓を整備して小堂を設け、田を寄進して供養するように計らった。そして平家滅亡後の建久元年(1190年)には、息子の源頼朝が上京の折に野間の地を訪れ、父の墓参をおこなっている。この頃から「大坊」と呼ばれるような立派な伽藍を備える寺院となったようである。その後も武門の棟梁の終焉の地として、武家の手厚い庇護を受けることになる。
 源義朝の墓には、埋め尽くすように卒塔婆が置かれている。卒塔婆は木刀の形をしているが、これは義朝暗殺の時に「木太刀の一本もあれば」と言い残して絶命したという故事にちなんでいる。またこの墓の近くには義朝の首を洗ったという血の池がある。この池は、国に変事が起こる時には、池の水が血の色に染まるという言い伝えがある。
<用語解説>
源義朝
1123-1160。河内源氏の棟梁。源頼朝の父。父の代に京都での勢力を弱めるが、東国で武士団をまとめ上げ盛り返す。保元の乱(1156年)には平清盛と共に戦功を上げるが、後に対立。平治の乱(1159年)に源平の間で戦となるが、敗れる。

鎌田政清
1123-1160。母親が源義朝の乳母であったため、幼少時より乳兄弟として義朝のそば近くに仕える。義朝暗殺と同時に、長田景致に殺される。墓は妻(長田忠致の娘)と共に義朝の墓のそばにある。

長田忠致
?-1190?。尾張の野間を本拠とする。頼って来た、主の源義朝と婿の鎌田政清を暗殺し、平家方に寝返る(政清の妻であった娘は、その直後に自害したと言われる)。源頼朝挙兵の際に源氏方に戻るが、頼朝からは「働き次第で美濃尾張を与える」との寛大な扱いを受けて奮戦するも、平家滅亡後は主殺しの罪で捕らえられ酷い方法で処刑されたという。捕らえられた時、頼朝からは「約束通り“身の終わり”を与える」と言われたとも。

平康頼
1146?-1220。平清盛の甥である平保盛の家臣。保盛が尾張国司となった際、目代として当地に赴任。その時に義朝の墓を修繕した。この噂が京都まで聞こえると、後白河上皇のそば近くに取りたてられる。その後、鹿ヶ谷の陰謀の首謀者の一人として捕縛され、鬼界ヶ島に流されるが、赦免される。遠島の時に出家をしていたが、鎌倉幕府成立後、源頼朝より阿波国の保司に任ぜられたとの記録も残る。
<関連伝承地>

源義朝墓

血の池

野間大坊


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